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【Tachibana Cyber Laboratories】橘サイバー研究室

Vol.40ディートリッヒ(Marlene Dietrich)とリリー・マルレーン(Lily Marlene)

2017年4月21日

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日本であまり知られていないがヨーロッパで知られた歌に「遥かなティペラリー」と「リリー・マルレーン」がある。この二つの歌は戦争と関わっている。

「遥かなティペラリー」は It's a long way to Tipperary という繰返し部分が印象的だ。イギリスの歌で、昔、父も時々歌っていた。子供の頃は、変な歌だなーと思って聴いていたが、世界では有名な歌で、変な歌に聞こえたのは父のせいであった。大正から昭和のはじめにかけて、文系も理系もドイツが隆盛な時代であったが、商科だけはイギリスという風潮があり、旧制の高商でも歌われていたのであろう。第1次大戦の時にアイルランド人の連隊がこの歌で行進していたのをデイリー・メール紙の記者が報じてから広まったという。歌詞は、アイルランドの田舎からロンドンにでてきた若者が、こんなロンドンとおさらばして恋人のいる故郷のティペラリーに帰りたい、という内容だ。リズムが良いので次第に知れ渡り、第2次大戦の時にはヨーロッパ戦線で敵も味方も歌ったらしい。ドイツの潜水艦をテーマにした映画「U・ボート」1981でドイツ軍水兵らも敵国の歌であるにも関わらず艦内で威勢よく歌っている。

もう一つの「リリー・マルレーン」は第2次大戦の以前にドイツ兵により作詞されたものだ。1975年に紅白で梓みちよが歌っており、またその後にも加藤登紀子らも歌っている。しかし、鈴木明の「リリー・マルレーンを聴いたことがありますか」[1]が1988年に出版されているくらいだから、やはり日本ではあまり馴染みがないのだと思う。

この歌は、兵営の前の街灯のもとで昔のようにまた会いたい。二人の影が一つになっていたように・・といった若い兵士のせつない思いを歌っている。はじめ占領下のベオグラードのドイツ軍放送局から毎晩9時57分に放送された。アフリカ戦線でロンメル将軍に率いられたドイツ軍兵士も、モンゴメリー将軍に率いられたイギリス軍兵士も砂漠の星空を仰ぎ故郷の恋人を想いながら耳を傾けたという。はじめの歌い手はララ・アンデルセンであった。しかし厭世的で戦意高揚にならないとのことでゲッペルスの命令で放送が中止された。しかし、時すでに遅しで、その甘くせつないメロディは若者の心に焼き付いてしまった。又、イギリス軍でも受信が禁止された。しかし、言葉はわからなくとも、リリー・マルレーンという恋人の名を呼ぶ繰り返し部分が兵士らの胸を打ったのだろう。そして、またたくまに、敵味方の兵士の間にひろがっていった。

やがてこの歌の歌い手は連合軍側の慰問団の1人、マルレーネ・ディートリッヒにひきつがれたのである。この女性、実は大変な人生を生き抜いた女性である。

彼女は生粋のドイツ人で、プロセインの貴族の血をひいており、慰問団で活躍する以前に、すでに女優として名声を博していた。最初に彼女の存在感を世界に示したのはドイツ映画の「嘆きの天使」1930であった。
あらすじは、まじめな老教授が不良学生の出入りしている酒場を聞き出し、彼らに忠告しようと乗り込む。しかし酒場では太腿を露わにショウを演じるローラ(ディートリッヒ)に惹かれてしまう。そしてしだいに身をもちくずしていく、という展開だ。
しかし彼女が世界で「名声を博した」のはこのストーリーでなく、太腿も露わに、の足であったのではなかろうか。

ともあれ、彼女に目をつけたハリウッドは米国に呼び寄せる。彼女は、オーストリアの田舎からでてきてベルリンで威勢をはるヒットラーを苦々しく思っていた。というのもベルリンは当時はパリやウイーンなみの「花の都」であり、ヒットラーは野暮な男に見えたにちがいない。喜んでハリウッドへ移り住み、多くの作品に出演している。

主な主演作と共演者をあげると、

「モロッコ」1930ではゲイリー・クーパーと、「砂塵」1939ではジェームス・スチュワートと、「妖花」1940ではジョン・ウエインと共演した。第2次大戦の間はしばらく映画撮影はなく、戦後になり「狂恋」1946ではジャン・ギャバンと、「情婦」1958ではタイロン・パワーと、「無頼の谷」19652ではメル・ファーラーと共演している。

写真-1はディートリッヒの伝記[2]で、これには彼女の波乱万丈の人生が記されている。ヒットラーは再三にわたり引用されており、そのページの総数は16ページもある。ゲッペルスを通じてヒットラーからの誘いはあっさり断っている。
ところで第2次大戦の間、彼女は決して大人しくしていたわけでない。占領下のフランスからアメリカに逃れていたジャン・ギャバンと親密な付き合いを重ねていたのだ。やがて自由フランス軍に参加するために出征したジャン・ギャバンの後を追うようにヨーロッパ戦線の慰問団に参加し、命がけで弾の下もくぐっている。この時、連合軍兵士のリクエストでリリー・マルレーンを歌ったのである。又、あのパットン将軍とドイツ軍捕虜との通訳までしている[3]。

その他、彼女と少なからず関わりのある著名人をざーと挙げると[4]、ヘミングウェイ、ルーズベルト、ペニシリンの発明で多くの戦傷者を救ったフレミング、「西部戦線異状なし」の作家レマルク、オーソン・ウェルズ、ストラビンスキー、シナトラ、ナット・キン・コール、エディット・ピアフ、バート・バカラック等など多彩をきわめている。たとえ、どのように紹介しても彼女の人生の断片にしかすぎず、結局は写真-1のような626ページの大書になってしまうのだろう。

1970年の大阪万博で公演をしたときは、万博協会の当時事務総長だった鈴木俊一(後に都知事)は公演をねぎらうパーティでの印象を次のように語っている[5]。

万博関係者を代表し、一番最初に彼女と握手することになった。喜びと同時に、彼女を間近かに視ることによって、若き日からの陶酔が醒めてしまうのを怖れた。白のレースのイブニング姿のマルレーネ・ディートリッヒは、この世の凡ての光を集めて燦然と輝いていた。どのように握手をし、どのような言葉を交わしたのか、どうしても想い出せない。しかし、あのときの胸の高鳴りと、老いのかげりさえも見せぬ彼女を目の前にして、わが青春の選択に少しの間違いもなかったことを確信したのを、はっきりと覚えている。

上の2行目で「若き日からの陶酔が」とは、東京帝大法学部1年の時にディートリッヒの虜になって以来、彼女の映画のおいかけをしていた頃の話である。それから40年近くも経っているから怖れたのだ。

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